今日は知人が個展をするということで、行ってきました。
前にビジュアルシンカーの脳という本を読んだ時にも書きましたが、僕は完全に言語思考者寄りで、視覚思考者的な才能はゼロです。
なので、アート的なものを見て何を感じたらいいかがそもそも分からず困ることが多いです。
それ故に、「こういった美術館などアート的なものに触れることで視覚思考者の気持ちを理解できるようになってみたい」、と思って出来るだけ機会があればできるだけ行くようにしています。

すべてのアートに説明書きが欲しい
前に毎回美術館に行くたびに、また、去年瀬戸内国際芸術祭2025に行ったときにも思ったことですが、
すべてのアートは説明をして欲しい。。。
僕のようなアート感覚ゼロの人間は、アートのようなものを見ると一体何を感じて欲しいのかがわからず、脳がパンクしそうになる。
文章を読んでいる時とは全く別の脳が使われている感じがして疲労感が募る。
いつもと違う脳を使おうとしていることは良いことなのだろうが、、、
でも、理解したい。
それゆえに、「現代アートがよくわからないので楽しみ方を教えてください」という本を読んでみたりもした。アートの鑑賞には「型」があり、それを知ってることで楽しめる、と書かれている本だ。
でも、僕よりは「アート寄り」な娘や妻にその本の話をすると、彼女たちはその本に猛反対。
「アートの楽しみ方に型なんてない!その本は間違ってる!好きなように見ればいいじゃん!」
と反論される。。
じゃあ俺はどうすればいいんだ、、、
「好きなように見る」をどうしたらいいかわからないんだ。。
絵を見ながら作者にインタビューできる贅沢

しかし、今回は違います。「作者が個展にいるとき」に訪れてみました。
小さなカフェで個展を開いているので、狭い空間ゆえに作者に事細かに質問してみました。
とてつもなく学びが多かったです。
ビジュアルシンカー(視覚思考者)の気持ちが少し垣間見えたような、斬新な体験でした。
以下感想です。
「目的」を持たず描き始めていた。
僕「まず、どんな風に描き始めているのか聞きたいです。例えば描きたいものがあって、それを形にするためにどんな道具を使って、、、とかそういうプロセスを聞いてみたいです。」
という質問に対し衝撃的な回答が返ってきました。
最初は「書こうとしているものが無い状態」からスタートしている
と。
絵の具などの道具で遊んでるうちに、だんだんその絵がなりたいものが見えてきて、途中から目的・ゴールが見えてくる、、、
ものすごい衝撃的な進め方です。信じられない。
完全な暗中模索ですよね。
その絵がなりたい形に
彼女の言葉を僕なりに解釈すると、
最初から自分の中に描きたい何かがあるわけではなく、「その絵がなりたい形になるように手伝ってあげているだけ」
という感じのようです。
なんかの天才のセリフのようだ。
また、あるいは、自分でも言語化できない何か、まだイメージにもなっていない何かが頭の中にあり、それが道具で遊んでるうちに具現化してくるような、、、
彼女の言葉からはそんな印象を受けました。
「自分は空っぽのパイプのようなイメージ」だと話していました。
中身がない管というかパイプのようなものだと。
もし中身が詰まってたら何もできないけど、空っぽなので絵がなりたいイメージを受け入れられ形にできる、、、のようなことを言っていました。
人には見えないもの何かが見えている。
恐ろしく興味深いです。
「言語化」できるものなんて世界の中のほんの一部なのでは、と思わされずにはいられません。
ゴールがないことへの不安は無いのか?
最初に聞いたように、「ゴールがない状態」から描き始めている。
「仕事」として考えると、その仕事の進め方は不安にならないのか、と思ってしまう。もちろんアートを仕事と同じ物差しで図ること自体がナンセンスかもしれないが。
ただ、少なくとも個展に出すということは決めている中で、「いついつまでには何かを作らなければいけない」という縛りの中で、ゴールがない状態で進めてしまっては何をもって「完成」と言えるのか。
そこに対しての美帆さんの答えが素晴らしいものでした。
いや、衝撃的なものでした。
美帆さん「それは自信があります。」
僕「自分への、ですか?」
美帆さん「いえ、絵への、です」
絵が、絵自信がなりたいものになる、ということに自信がある、と。
それに対し、さらに質問してみました。
僕「じゃあ、どの時点で完成、となるんですか?」
という質問に対し、この絵を書いてるときに、
美帆さん「できた、とわかった」
という回答でした。描き続ける中である時点で「できた」と感じたと。
例えば以下の絵でいうと、真ん中の部分のスペースのような空間ができたときに、これが先ほど言った自分のパイプのような「空(くう)」の部分が表現できていると感じ、「できた」とわかったそうです。

なんかもう、僕からしたら天才の世界すぎて恐ろしいし面白いし、このヒアリング自体がものすごい体験でした。
言語化できない能力
この話を聞いているとき、この絵の作者の美帆さんの他にも絵を各人がいて、その人は僕の質問を聞きながら、
「そんな風に考える人(僕のこと)がいるんだー。」
と興味深そうに言っていました。
つまり、彼女たちにとってはそのような手法で絵を描くことがごく普通のことだ、ということです。
僕にとっては不思議で仕方ない話でした。僕の視点では、そのようなプロセスも感じ方も全く未知のもの、「言語化できない何か」なのに、この人たちにとってはごく当たり前のプロセスで当たり前の感覚だということです。
ゴールがない状態で描き始め、
自分の中にある何か言語化できないものを形にする。
あるいはその絵がなりたい形を模索する。
それを探っているうちに最終的に「できた」と思える何かになる。
「絵を描く」という行為の継承の必要性
そんな、僕の視点からだと超人的な何かとしか思えないことが、「当たり前」だという世界が、人たちが存在するという事実。
1人だけではなくそれに「普通に共感できる」人たちがいるということは、間違いなく「その何か」は「ある」ということなのかなって感じます。
ということは、今現在の人類の能力では言語化できない能力が我々にはあるということですよね。
であるならば、今時点ではできなくとも、将来的に科学的に分析できるようになれば、その「何か」を具体的に言語化でき、あらゆる技術に活用できる日が来るかもしれない。
絵を描く行為は、何かを生産している行為ではない。絵を描かなくても生活に困ることはないし、AIに絵を描かせてもいい。
だけど、もし、こういった「謎の能力」が絵を描くという行為の中に含まれているのなら、人類が絵を描かなくなってしまったらその能力ごと失われてしまうのではないか。
そんな風に感じた、貴重な日でした。
