今回は「人間はどこまで家畜か?」というキャッチーなタイトルに惹かれて、この本を手に取りました。精神科医である著者が伝えたいメッセージは、本書のあとがきのまとめから引用すると、人間は文化によって進化し、豊かな暮らしを手に入れたけれども、ゆっくりとした生物学的な自己家畜化をはるかに上回るスピードで進む文化に引きずられている。その変化が、どこまで恩恵であり、どこから疎外なのかという問いかけです。興味深いですね。狐の実験と人間の家畜化の話まず本書で引用されていたのは、よく知られた狐の家畜化実験。人に懐きやすい個体を選んで掛け合わせていくと、世代を重ねるごとに顔つきが優しくなり、人懐っこくなり、脳も小さくなる──そうした変化が犬のように現れる、という話です。いろんなところで聞いたことがあるはなしですよね。これは哺乳類でも鳥でも同様に見られるそうです。そして、著者はそれを人間に重ね、現代社会で我々もまた、毎日会社に通い、秩序ある環境に適応するよう家畜化されてきたのではないかと論じています。攻撃性の2つのタイプ|反応的攻撃性と能動的攻撃性面白かったのは、攻撃性についての分析です。著者は「反応的攻撃性」と「能動的攻撃性」という2つの言葉を用いています。反応的攻撃性:反射的に怒って手を出してしまうような暴力。能動的攻撃性:冷静に頭で考え、計画を立て、場合によっては仲間と相談して人を害するような暴力。人間は自己家畜化の過程で反応的攻撃性は減少し、セロトニンの増加やコルチゾールの減少によって穏やかになってきました。その結果、ちょっとしたことですぐ手を上げて喧嘩するようなことは減ったわけです。これはいいことですよね。でもここで、「であるならば、何故戦争はなくならないのか!?」という問いが生まれます。その理由は、能動的攻撃性──つまり計画的で巧妙な暴力──は残っていて、それが戦争のような大規模殺人につながっている、と。反応的攻撃性に関して言えばヒトよりチンパンジーの方が断然危険だが、能動的攻撃性も含めると、人の方が圧倒的に危険で大量破壊をすることもできてしまう、という話です。わかりやすい。そして怖いですね。「自己家畜化」でデモやストライキも少なく例えば以下のようなことが自己家畜化のようだと書かれていました。欧米では今でもデモやストライキは盛んに行われていますが、日本ではそのような大規模な行動はほとんど見られない、と。例えば埼玉県でクルド人の人たちが100人とかで病院に押しかけた、、、などがあるとニュースになったりします。しかし人類史全体で見れば、こうした「集団での直接的な抗議や解決方法」の方がむしろ自然であり、当たり前であったという指摘です。我々は自己家畜化が進んでいるためにそういう行動にあまり出ないが、むしろ世界全体で見れば当然のやり方だと。国家と暴力の関係この点について著者は『暴力の人類史』を引用しながら、ざっと以下のようなことが書いています。一見、国家のない狩猟採集社会は牧歌的で平和的なイメージを持たれがちですが、実際には大規模な戦闘や残虐な襲撃、復讐が頻発していた。データで見ると、国家による仲裁が存在しない社会ほど暴力的である。逆に、古代メキシコ社会のように国家がまだ未発達な段階であっても、国家の抑制がある社会では狩猟採集社会に比べて暴力が大幅に少なくなる。そして、暴力を経験した共同体は経験しない共同体よりも向社会的な規範が強まり、より活力のある社会になっていく、と。これは意外でした。狩猟採集民族の方がもっとのんびりしてて幸せかなーとか思ったりしましたが、国家による強制力がないと人は暴力に走ってしまうのか、、、と。国家間による戦争の分を差し引いても国家の方が暴力が少なくなると言っています。そうか、、、我々は知らぬ間に国家という仕組みの恩恵を受けているのか。。子供部屋と個人主義の関係資本主義や個人主義を促進していたのは我々の内面だけではなく都市全体からも影響をうけているそうです。その例の一つが「子供部屋」。元々の日本にはなかった子供部屋文化が戦後取り入られることで、プライバシーが生まれ、自分への意識、個人主義が促進されたそうです。子供部屋の有無にそんな影響が!と驚きでした。中世なら英雄、現代なら精神病この精神科医である著者は、精神病に入退院を繰り返す患者を見ると「この人も中世に生まれていたら英雄だったのかもしれない」と思うことがあるそうです。なるほど確かにそうですよね。例えば戦争が頻発していたり、暴力的な男性がむしろ必要だった時代には、そういった人たちの存在はなくてはならないものだったかもしれない。反して、今はすぐカッとなったり思わず手が出てしまうような乱暴者は社会不適合者となってしまう。。今の時代に合っていないだけで、もともとは英雄だった人。そしてそれはうまく自己家畜化ができていない人たち、、、ということなんだろうなと。この著者はそういうふうに感じているようです。それが毎日現代社会にうまく適合できず心の病に苦しむ患者さんたちを見続けている精神科医の立場での意見だと思うと、考えさせられます。倫理と家畜化のスピードこのような話を聞くと、また村田沙耶香さんの「世界99」の名言、「倫理の賞味期限」というフレーズを思い出してしまいます。現代社会は倫理観が変わるのが早すぎる。少し前まではその辺で歩きタバコをしている人もいたし、オカマネタで笑いをとる人もいた。女子は働くより家にいるのが当たり前だと断言する人もいた。でも今は許されない。今もそのようなスタンスのまま、つまり倫理をアップデートできていないと、あるいは自己家畜化ができていないと、叩かれる。僕もそういう人たちには嫌悪感を覚えてしまう。でも同時に最近少し思う。その人たちは常識がないわけではない。過去のとある時点での常識は学んだことがあるのだ。その時は良かったのだ。それに対し、アップデートをしていない、ことが問題なのだ。僕の疑問は、「常識がないこと」ではなく「常識をアップデートしないこと」は果たして罪なのだろうか。ということ。あまりにも社会規範の変化が早すぎて、家畜化が間に合わない人が続出する。明らかに現代の倫理観の方が「良い方向」には進んでいる。ただそのスピードが明らかに速い。10年前の倫理観をそのままではいられない。現代の心の病の大元はその辺だったりしないかな、、、とか思ったり。エンハンスメントはどこまで許されるのか?ここでいうエンハンスメントとは、本来は病気や障害を治すための医学的技術を、健康な人が能力向上の手段として使うこと。アメリカではすでに問題になっているそうです。アデロールという抗精神薬が能力向上に使われていたことでニュースになったそうです。知らなかった。例えば、過酷な試験勉強を乗り越えるため、友人やSNSを通じてアデロールを入手し徹夜で勉強する。サンフランシスコのソフトウェアエンジニアが深夜1時まで働く。そんな使い方、、、怖いですよね。もちろん、覚醒剤的なものは健康に良くないので規制されるでしょう。でももし、これから研究が進み、安全なエンハンスメントが当たり前のように普及するようになったとしたら?レッドブルを飲むのはOKで、覚醒剤はNG。ではどこからがOKか?みたいな世界。健康を害することなく、使った方が能力が上がるのであれば、エンハンスメントを使うのが当たり前になるのかもしれない。車を使った方が歩くより速い、手書きよりパソコンやスマホを使った方が仕事が速い、そんな感覚の延長線上に、エンハンスメントでドーピングした方がタイパがいい。そんな風になっていくのか。そしてそれは良いことなのか。著者はそういう未来も懸念しています。無論、ジャック・ハンマーならノータイムでエンハンスメントするけれど。人間はどこまで家畜か:まとめこの本は、精神科医の視点で書かれているのが興味深い。書いている世界や懸念点は、SF小説に書かれているディストピアもので訴えているものに近いものにも感じられました。しかしそれを、いつも心の病に苦しんでいる人と向き合って働いている精神科医の視点からこういった意見が出てくるのが僕にとっては新しく、視野を広げるきっかけにもなった気がします。