「世界99」今回は、『コンビニ人間(僕はまだ読んでないですが)』で有名な村田沙耶香さんの小説『世界99』を読みました。正直に言って、これはもう衝撃的すぎて、読み終わったあと、何をどう言葉にすればいいのか分からなくなりました。それくらい、なんというか、ものすごくて、気持ち悪くて、考えさせられる本でした。本の帯には、「究極の思考実験」とかいてあります。まさにディストピアの思考実験だと思いますし、現代社会の構造を非常によく把握した上で今後起こり得るかもしれない近未来を描いている、、、そんな話です。この小説は、空子(そらこ)という一人の女性の人生を描いています。物語は彼女が幼稚園に通っている頃から始まり、50代、60代、そしてもっと先の未来まで、彼女の人生全体を綴っています。とはいえ、空子は「空っぽな人間」とでも言うべき存在で、喜怒哀楽の感情がほとんどなく、「かわいい」や「かっこいい」といった感覚も持ち合わせていません。やりたいことも、楽しいと感じることもない。とにかく感情が希薄で、他人と自分を比べて劣等感を持つことすらない。そんなそらこの存在自体が、すでに異様で不気味です。この物語の舞台は、現代の日本をモデルにしつつも、世界がどんどん変わり倫理観が少しずつ歪んでいく未来社会。人間の価値観や倫理が「少しずつズレていく様子」も描かれており、僕にとっては作中にも出てきた「倫理の賞味期限」という言葉が、数あるこの作品の中のテーマの中で最も重要に感じました。テーマが物語の奥底に流れています。日常の中に潜む異常性、人間の内面のグロテスクさや不穏さを、これでもかというくらい丁寧に描写していて、読んでいてゾッとするようなシーンも多くありました。まずはその主人公「そらこ」がどんな人物なのか、そこから少し掘り下げていきたいと思います。そらこという存在の異質さと、「世界」を切り替えて生きる感覚先ほど少し触れましたが、そらこはとにかく「空っぽ」な存在として描かれています。やりたいこともなければ、やりたくないことすらない。楽しい、悲しい、怒りたい、意地悪したい──そういった感情がとても希薄で、ただ相手に合わせてその場に馴染んで生きているような人物です。ただ、相手や場を観察しその場に最も適したキャラクターになることが異様にうまい。物語の序盤、そらこは幼稚園に通う女の子として登場します。周りの子どもたちが「これがいい!」「あれじゃなきゃイヤ!」と自分の主張をぶつけ合っている中で、そらこには要望はないので、なぜそんなに暴れる必要があるんだろうと不思議に思い、「私はどっちでも大丈夫です」と、ひとり冷静に状況を見ているような、年上のような振る舞いをします。でも、保育士の先生たちはそんなお姉さんキャラな彼女を褒めつつも、「自分の本音を言わない子」として心配し、本音を引き出そうとします。空子は大人たちがなぜそんなことを要求するのか、そのこと自体が理解できないものの、それでも「何か本音らしきものを言わなければいけないらしい」と悟ります。そして、七夕の日に、「私は◯◯色じゃなきゃイヤだ」と、普段わがままを言っている別の子をコピーして“本音”らしきものを演じてみると、先生たちは安心し、優しくなでてくれました。そらこは「気持ち悪い」と思います。そのときから彼女は、人の感情や言動をコピーすることで、キャラクターをつくり、それを切り替えて生きていくことを覚えていきます。その後も彼女は、出会う相手に応じて全く異なる「自分」を演じるようになっていきます。地元の居酒屋で愚痴を言い合う庶民的な集団にはそれにあった顔。意識高い系で3万円のランチを食べるような富裕層には、それにあったハキハキとしたモチベーションの高いような女性の顔。環境問題や社会課題に真剣に取り組む正義感の強い集団には、真面目で純粋な活動家のような顔。こうして彼女は、無数の「世界」を持つようになります。作中ではそれを「世界1」「世界2」「世界3」…と名付けます。どれも「本当の自分」ではなく、「相手が望む自分」を完璧に演じたもの。でも、それを演じることに喜びもなければ、罪悪感もない。ただ「波風を立てず、嫌な目に遭わずに済むため」に、それを選んでいるだけです。彼女には「何かをしたい」という欲望はないのに、「何かをされたくない」というネガティブな感情だけはあります。だから、誰かに襲われたくない、面倒ごとに巻き込まれたくないという一心で、「相手にとって心地いい自分」を作り上げていきます。その後、それら複数の世界を俯瞰してみている自分、つまり「世界99」があることにも気づきます。ちなみに空子は多重人格とはまたちょっと違っていて、もっと意図的で、「この状況だとどのキャラがいいか」を常に考えて合わせているだけです。だけどその根底には感情も意思もほとんどなく、ただ生存のために生きているような、無機質な人間像がそこにあります。性犯罪の描写についておぞましいとしか言いようがなかった。。気持ち悪くてものすごいスピードで読み進めてそのシーンを早く終わらせようとする自分に気がつきました。変質者って、こんなに気持ち悪いのか、、、と。しんどいので詳細は書かないですが、そういうことがない世界にしたいと心から思いました。差別の描写についてこの作品では差別も大きなテーマとして描かれています。村田沙耶香さんの描写がとにかく異常に上手い。空子は、「差別が盛り上がる集団」では「どの程度の差別までが許容されるか」を察知し、最もウケのいい差別発言を繰り出す──そんな描写がものすごく気持ち悪くゾッとします。しかし、実際我々も多かれ少なかれそうやって生きているんですよね。作中にとある音ちゃんというキャラが、「それにしても、差別されるっていいですよね。一種類の差別をされてるだけで、まるで自分が他の種類の差別を全くしてないような気持ちになれませんか?そんなわけないのに。差別者じゃない人間なんていないのに、あたかもそうであるような気分になれるのが、差別される唯一のメリットですよねー。」という、ものすごい発言をします。さらに別のシーンでは、とある医者が、「でも、かわいそうなことは素晴らしいですよね。僕、たぶん、将来。それって娯楽になると思うんですよね」とまで言っています。かわいそうな人をみて、泣くと、心が浄化されると。でもこのまま世界がどんどん素晴らしくなってくるとかわいそうな人はどんどんいなくなる。でも、「娯楽としてのかわいそう」は残っていいのでは、と。この作品の中で何度も、差別が行われ、差別したりその人をかわいそうだと思うことが娯楽として使われている描写があります。もう、なんと言っていいのかわからない気持ちにさせられます。ピョコルンという「理想の存在」と倫理観「ピョコルン」という存在は、本作の世界観を一気に歪めていく強烈な役割になっています。最初、ピョコルンは単なる愛玩動物として登場します。羊やアルパカ、パンダなど、もこもこで可愛い要素を全部詰め込んだような外見で、まさに「癒し」そのもの。ところが、このピョコルンはどんどん機能がアップデートされていきます。掃除や料理などの家事もこなすようになり、ペットというよりも家庭用ロボットに近い存在へと進化していきます。そして、ここからがこの物語の恐ろしさでもあります。ピョコルンがあまりにも「美しく」「かわいい」がゆえに、人間たちは恋愛感情や性的な欲望すらピョコルンに向け始めます。最初は「そんな気持ち悪いことを…」と批判的な声もありますが、徐々に社会はそれを受け入れ、最終的には「人間同士の恋愛や性は不潔なもの」「ピョコルンとの関係こそが清潔で倫理的に優れている」という風潮が主流になっていきます。結果、性犯罪も減少していきます。さらにこの世界では、技術の発展により、ピョコルンが人間の卵子と精子を体外受精して出産することまで可能になります。さらにはある程度の育児までもピョコルンがになうこともできるようになる。こうして、恋愛・性欲処理・出産・育児といった行為のほとんどが、ピョコルンによって代替可能となり、むしろ人間がそれを行う必要がない世界が訪れます。その結果、若い世代は自分で子どもを産む必要性がないので小学生の段階で子宮を切除することすら当たり前になっていきます。若い世代の間では怒りや嫉妬といった「ネガティブな感情」も「汚い気持ち」「汚い言葉」として排除され、そういう汚い感情自体を忘れていき、綺麗な言葉と感情だけで生きる新しい人類になっていく。。「倫理の賞味期限」についてでも、ここで本作が描くのはただの未来の進化ではなく、「倫理の賞味期限」という問題です。ピョコルンに子どもを産ませたり性の対象とすることを「虐待だ」と主張する人々も当然いました。しかし、時代が変わるにつれて、ピョコルンにそういうことを任せる世界の方がクリーンで良い、という風潮になります。そして、そうした「旧来の倫理観」に固執し「アップデートできていない」人はどんどんマイノリティとなり、社会の中心から外れ、「かわいそうな人」になっていきます。正義感や倫理観が、技術や時代によって簡単に「古いもの」として片づけられ、アップデートできない人間は排除される。このお話の終盤では、14歳の女の子2人が「友情婚(人同士の性愛がなくなり、結婚は友達同士ですることも普通になりつつある)」をし、さらにピョコルンを妊娠させてしまった、という話があります。まだ若すぎる2人に子供が授かってしまい、周りの大人もまだ凛々感がアップデートされておらず、ピョコルンを堕胎させることがアリなのかナシなのかの判断も曖昧のまま、結局産ませることを決め、出産に立ち会うことになります。その時点で50歳の空子は、14歳の女の子たちの子供を産むピョコルンの出産に立ち会い、出産の場面の動画を撮ることを頼まれます。悲鳴を上げるピョコルンと、それを心配そうに応援する14歳の女の子、そしてピョコルンが割けて人間の子供が生まれてくる様。血だらけのピョコルン。そのグロテスクさを動画に収めながら空子は思う:「この倫理の賞味期限はいつだろうか?」と。今は自分たちが正当だと思ってやっている行為が、未来においても正当なのか。この動画はこの子供が大人になった時に見せて「感動しろ」と迫ることができるものなのか、と。これは、現代の私たちが感じている「時代についていけなさ」や「価値観の変化の速さ」のメタファーでもあるかなと思います。価値観がどんどん変わる世の中です。価値観をアップデートできていない古い考えの人もいます。そんな人に対し、「うわー。。」と思うこともありますよね。逆に、無意識のうちに、「普通さー、」と言いながら相手に「うわー、まだそんな考えなんだ。。」って思われて老害扱いされることもあるでしょう。でも、マジョリティの価値観が変わっていってるだけで、それが正しいかどうかは「どの世界か」だけの話です。「世界1」なのか「世界2」なのか「世界3」なのか...この、価値観がどんどん変わる世の中において、「価値観をアップデートしていないことが罪」なのは違和感がありますよね。そして、サピエンス全史で言っている「認知革命」、物語・フィクションを信じられる我々の能力の話を思い出してしまいます。所詮すべて「物語・フィクション」だと思ってしまうと、一体何を信じたらいいか、今まで信じてきたものもよくわからない、、、そんな気持ちにさせられる話でした。思ったことまとめ:やりたいこと・目的ファーストで生きよう。空子の人生は、本人はこの時代において典型的だと言っていますが、僕からみたら最悪の不幸でしかないように見えます。(それはあくまで僕のいる「世界〇〇」における世界観でしかないですが)空子に足りないのはやはり喜怒哀楽ですよね。もっと楽しいことがあってやりたいことがあれば、目的から逆算して世界を変えられるし世界を渡り歩き、楽しめたのかな、と。(楽しむ、、、の感情がないところからスタートしたのが空子はしんどいですね。)何もないがゆえに受け身で生きてしまったのが課題かなと。とにかく人の心の描写がリアルで、鮮明で、それゆえに気持ち悪くグロテスクで、でも続きが気になってしかたなく、考えさせられるお話でした。コンビニ人間も読んでみようかな。今回の個人的感想まとめ:・「倫理の賞味期限」を意識してみよう。・受け身にならず、やりたいこと・目的ファーストで生きよう。