今回は、内田樹さんの『困難な成熟』という本を読んだ感想を書いていきたいと思います。なぜこの本を手に取ったのかはちょっと思い出せないのですが、誰かに紹介されたのか、なんとなく気になったのか忘れましたが、本棚にあったので読んでみました。なかなか興味深い話も多かったです。印象に残った部分をいくつか紹介していきます。責任を取ることは不可能最初に出てくるのは、責任を取ることは誰にもできないという話です。内田さんはこう断言します。「責任を取るということは不可能です。はい、おしまい」と。たとえば、誰かを傷つけてしまったり、物を壊してしまったときに、それを完全に元に戻すことはできない。謝っても償っても、相手の嫌な気持ちは消えないわけです。つまり、本質的には「責任を取る」という行為自体が成立しない。だからこそ、古代の法典──たとえばハムラビ法典にある「目には目を、歯には歯を」といった言葉も、目を潰されたら目を潰していい、という意味ではなく、「無限責任へのブレーキとして存在している」と。これはよく聞く話ですが、確かにそう思います。その前提で、次に続きます。「俺が責任を持つよ」と言えばいい。この章で特に面白かったのは、次のような一節です。「みんながルールを守っている社会に住みながら、かつ責任を取ることを人から求められずに済む生き方をしたければ、“俺が責任を持つよ”と言えばいい」これを読んだとき、「そう!まさに!」と思いました。実際、プロジェクトマネージャーとして仕事をしていたときも、経営者になった今も、「俺が全部責任を持つ」と言ってしまうと、むしろ仕事はやりやすくなる。なぜなら、責任と引き換えに決定権が手に入るからです。これはものすごく同意です。ずっと思っていたことをうまいこと言語化してくれた感じ。内田さんは合気道をやっていることもあり、武道の考え方を引き合いに出してこんなことを言っています。「武道は後手に回ったら負ける。たとえ先手を取られても、『これは取られたのではなく、先手を取らせたのだ』と言い張るのが骨法だ」つまり、自分が何かに巻き込まれたとしても、それを自分で選んだという態度で臨むこと。そうやって「自分が決めた」「自分がやった」というスタンスを取ることが大事だという話です。この考え方、すごく共感できます。自分の失敗だとしても「自分でこうなるようにした」と腹をくくる。多責的な態度を取らず、すべて自分の責任と捉える。とても潔く、強い考え方だと思います。責任と決定権はバーターであるさらに共感できるのは、「責任と決定権はバーター関係にある」という考え方です。「責任を取ると宣言した人間に、決定権が与えられる」これはまさに自分の実感と一致します。責任を持つことで、決定する自由が手に入る。経営者としてすべての責任を負うことはしんどいかもしれないけれど、その代わりに全部決められる。だから圧倒的にやりやすい。プロデューサーの現場仕事とは何か?この話の締めくくりとして語られるのが、「プロデューサーが現場でまずやるべき仕事」についてのエピソードです。「プロデューサーが現場でまずやるのは、床のゴミを拾うことだ」現場のすべてを見る覚悟のある人間だけが、床のゴミに気づく。役者もスタッフも、自分の役割に集中しているから、床に落ちているゴミには気づかない。でも、全体の責任を負う人には見える。これは、実際にマネージャーや経営者という立場になってみて、初めて実感できることだと思います。立場が変わるだけで、同じ空間でも見えるものが変わる。それは決して気のせいではなく、責任の範囲が広がったからこそ目に入るものがある。僕は昔からそうでした。新卒の時や1メンバー時は全然周りが見えていなかった。しかし、「リーダーに任命」された瞬間に今まで見えなかったものが一瞬で見えるようになる。スキルは全く変わっていないのに、立場が変わっただけなのに!僕はこのような体験を何度か経験しています。責任を持つだけでなんの努力も積み重ねていなくても視界が変わる。こんなにコスパのいいものはない、と何度も思ったことを、この本を読んで改めて思い出しました。そして、この本ではこうも言っています。「日本を良くしていきたいなら、決定権を持つ側に少しでも関わる必要がある。その第一歩は、床のゴミを拾うことから始まる」とても示唆的で、行動を促される言葉ですよね。ごみ、拾おう。夫婦仲の良し悪しは社会が決めている?これは興味深かったですね。「夫婦仲」についての社会構造の話です。著者は、今の日本では夫婦仲が悪く、母と娘が癒着し、父親は毛嫌いされ、父と息子の会話はなく悲惨――そんな「社会的な型」ができてしまっていると言います。まぁ、よくありそうな家庭ですよね。ただ、これは個人の問題ではなく、「そういう社会」に住んでいるから起きていることだとも指摘します。個人の問題ではなく社会の問題だと。なぜならば。例えばとある地域では、夫婦仲が良くないと恥ずかしいという社会からのプレッシャーが強い社会がある。そんな社会では、社会からの圧のおかげで不仲なところを見せられないため全ての夫婦が必死になって努力し、、、結果、そうしてるうちにほんとに夫婦仲が良くなっていくと。そんな文化もあるそうです。つまり、夫婦仲の良し悪しも「社会が決めている」。これは興味深いです。個人の問題ではなく社会の問題、だとわかっているなら対策も取りやすいかもしれないですね。大人になるとは大人になる方法はない。何かしたら大人になるわけじゃなく、立場だけの問題だと。例えば、「うちの旦那がさー、これこれで、、、大変なのよ」と愚痴をいう人がいて、それを聞くときに「なるほどー、大変だねー。。それは困った、、、まぁでももしかしたら旦那さんも色々あるのかもよ?」などと間を取り持ったとする。その瞬間、間を取り持った彼は「大人に」なっているのである。その立場の人は大人の対応を求められるからである。つまり、大人とは立場なのである、と。これは本当にそうかもですね!さっきのプロデューサーの話と一緒ですよね。その立場になるとその求められる立場に即した視点になれるということなんだと思います。実際に、今僕は子供がいますが、子供がいることで自分を律しているところがあります。お手本になる必要があるので。その証拠に、先日子供達だけでおばあちゃんの家に数日お泊まりにいったことがありました。するとどうでしょう。「大人」から解放された僕と妻は、ひどいことになりました。妻は遅くまで夜更かししたり、友達と飲みすぎて昼まで二日酔いになったり、僕は一日中ゲームをしたり、お菓子をずっと食べてたり、いつものルーチンの勉強もしなくなったり、、、子供のおかげで自分を律することができていたのか、、、!と思いました笑であるならば、立場ってすごく重要だな、と。もし機会があるならば、リーダーになったり親になったり責任者になったり、、、なんでもやった方がいいんだなって思いました。ワラシベ長者は「移動」と「交換」内田さんは、ワラシベ長者の主人公は「移動することと交換すること以外、何もしない人間」であると言っています。しかも、それこそが長者になれる条件だったと。彼は何か特別なスキルを持っていたわけでも、特別な努力をしたわけでもない。ただ、移動し続け、出会った人と必ず「交換」する。それだけ。しかも、持っているもの自体には「価値があるわけではない」とも言われています。では、なぜ長者になれたのか?それは「あるものに価値がある」と言い出す人に出会ったとき、その人と交換したから。つまり、価値というのは物自体に内在しているのではなく、「価値があると思う人」が現れた瞬間に、その人の中で生まれるものだと。著者はこのことを「交換の奇跡」と呼んでいました。この教訓は非常に面白いと思いました。とにかく移動すること、そして交換すること。価値を感じてくれる人に出会うまで動き続けること。これってマーケティングの本質にも近いんじゃないかと思いました。「自分が持っているものに意味がない」と思い込まずに、それを価値だと感じてくれる誰かと出会うまで動き続ける。すごくシンプルだけど、本質的な真理のような気がしました。両親の育児戦略は一致してはならない?普通、親は足並みを揃えて子育てする方が良いと考えがちですよね。私もなんとなくそのように思っていましたし、たとえば花まる学習会の高濱先生も「夫婦で教育方針が揃っていた方がいい」といったことをいっていました。特に中学受験に関する話題では、父親が受験に消極的で母親が頑張っているような家庭では、父親が子どもに「おまえも大変だなー」と共感してしまうと教育方針がブレてうまくいかない、という話をされていた気がします。でも、この本で語られていたのは逆の視点でした。「両親の育児戦略は、違っていて当然であり、むしろ違っていた方がいい。仮に両親の方針が完全に一致している家庭があれば、それは子どもにとって地獄だ」というのです。かなり強い言葉ですが、納得感もあります。つまり、子どもが葛藤できる余地がなくなるからです。片方の親がこう言って、もう片方の親が違うことを言う。その中で子どもは揺れ動き、考え、自分なりに折り合いをつけていく。逆に、方針が完璧に一致していたら、「自分はこうあってはならない」という唯一の正解しか許されない家庭になってしまう。それは確かに苦しい。私はどちらかというと「夫婦で意見を揃えた方がいい派」だったんですが、実際には夫婦間の思想が違いすぎてうまく一致した試しがあまりなくて(笑)、今思えばそれでよかったのかもしれないと少し気が楽になりました。さらに面白かったのは、「親は普通にしていればいい」と言っていたことです。どう子どもを育てるか、こうすべき、ああすべきと理想論に追われがちですが、そんなことはない。なぜなら、人類は7万年前から子育てをしてきたからです。もし例外的に賢い人間だけが努力してやっと成功するようなものだったら、とっくに人類は滅びている。子育ては誰でもできるように設計されているのだから、気負う必要はない。高度な品質管理が必要なはずがない、と。これは面白い話ですね。親はなくとも子は育つ、みたいな話ですね。問題は「寿命」「問題は寿命です」というタイトル。たとえば寿命が5年の生き物がいるとします。仮に「10年後にバレる嘘」をついても、当の本人はもういないわけですから、何のペナルティも受けません。むしろ、寿命の範囲内で利益を得られるなら、それをやらない手はない。これは「生物学的に正しい判断」になってしまう。たとえば、任期5年の研究者も「寿命5年の生物」として振る舞うよう制度的に求められているのだと。たしかにそう考えると、長期的な責任を伴う選択をするインセンティブがなくなるのは自然なことです。一方、もし人が「寿命100年の生物」として、つまりもっと長期的な視点で生きるならば、10年後にツケが回ってくるようなことはやらないはずです。ですが「寿命1年」で生きていると、10年後の影響なんてまったく気にならない。ペナルティが“存在しない”も同然です。そしてもう一つ面白かったのが、近代以前の人々は「自分個人」ではなく、「数十人から数百人の同胞と集団的な自我」を共有していた、という話です。著者は、それを「3世代=ざっと100年の平均寿命を持つ生物」として生きていたのだ、と言い換えています。つまり、個人の倫理や判断基準というよりは、集団としての誇りや恥、家名を守るという基準に基づいて行動していたわけです。「サイズの大きな生き物」「寿命の長い生き物」としての倫理的判断基準だったという考察は、なかなかに興味深いものでした。個人ではなく、集団として、あるいは組織として「寿命を長く見積もる」こと。それが倫理的な振る舞いや戦略的判断において重要だという視点は、現代の短期志向の社会にとって、とても大事な示唆だと思いました。僕自身は、不老長寿を目指していて、1000年生きたいと思っています。そうであれば、学ぶことに価値が生まれ、短期的な成果ではなく、世界を変えられるような長期的な成果に向けて積み重ねていけるのでは、と思っているからです。ですが、この本により、それに加えて「責任」の観点も加える必要もありそうですね。ただ、あえてこの意見に反論するならば、長期的な責任を常に考える必要があるならば、みんなリスクをとって思い切ったチャレンジができなくなるかも、、、という思いも出てきました。例えばスタートアップ・ベンチャー企業といった、リスクがあるし未来が見えないけど「でも、やってみるか!」というものが許容されにくくなるのでは、と。まぁ考え方次第ですかね。「僕が責任を取ります」と言って全責任を受けて始めればいいだけですよね。責任を取る方法はないのだから。僕は、責任者のやることは、究極的には感謝と謝罪のみ、思っています。思い切ってやってみて、失敗し迷惑をかけたら、当然責められる。そして謝罪する。誠実に。それで良いのかな、と。