この「43歳頂点論」、このタイトルを見ただけで震える方、どのくらいいらっしゃいますでしょうか。40代の人はこれを聞くと、いろんな気持ちが湧いてくるのではないでしょうか。僕は現在これを読んでいる時点で44歳、もうすぐ45歳の私としては、ちょうど43を通り過ぎたところ。非常に興味深い話でしたね。まず私の体感として、40代になって仕事がやりやすくなった、というのはずっと思っていますね。20代の頃よりは30代、30代よりも40代、「まさに今」が一番仕事がやりやすいと感じています。それは、やはり知識や経験が20代の頃よりは増えていて、いろんなケースに対応できるようになっているからだと思います。特に同じ業界にずっといるので、この業界でのトラブルに一通り慣れてきている、ということだと思います。そんな中で「43歳頂点論」という話を聞くと、、、今が頂点、むしろ頂点を少し過ぎたくらいなのかと思うと、何やら思い当たるところだったり、今後の不安みたいなものがかき立てられる、ものすごく考えさせられるタイトルですよね。今が頂点だからこそやりやすいのであって、あとは下るだけなのか。そんなはずはないと思いたいが、、、一体どんな本なんだろうと。そう思って、タイトルだけでいくらでも考えさせられる本でした。では、内容について書いていきたいと思います。体力が衰える40代この角畑さんという方、この著者は冒険家です。北極圏とか、そういった極地に行ったり、チベットの奥地のような誰も行けないようなところにずっと挑んだり、そういった冒険家です。犬ぞりを引きながら旅をし、アザラシを銃で狩り、そうやって北極圏を旅して回る。普通では考えられないような冒険、生き方をしている人です。その人が「43歳が頂点だ」と。この著者が書いている、この本を書いている時点で著者は48歳。48歳の時に43歳が頂点だという本を書いています。40代になると、やはり体力が衰えるが、その分経験が増えるので、今まで行けなかったところまで簡単に行けるようになる。体力は衰え始める。その分、経験でいろんなところに行けるようになる。それは真理だと。ただ事実として、体中、特にこの人は冒険家なので、普通ではありえないような厳しい生活をしてきているので、腰、肩、肘、膝、足首、いろんなところ、関節系はもうボロボロで、ぎっくり腰も一番怖いというようなことを言っている。ちょっと共感。思考やモチベーションといったソフトウェアに衰えは感じない。でもハードがちょっと軋んできている。。背中がちょっと痛くなったりする。下手な姿勢で仕事の仕方をすると、指先や手首が腱鞘炎になる。そういうところを、ちょっと気を付けてケアしなければいけなくなってきているのは否めない。タイピングをいっぱいしていると手首・指の腱鞘炎がひどいので、今これを書いている時も音声入力ですね。音声入力にいかに頼るかが、私の手首や指先を守る大事なことだと思って、日々やっております笑刺激を感じなくなることしかし著者は、その「経験」がもたらす一番の負の側面は、肉体の衰えとは別のところにあると言っています。それは、刺激を感じなくなることだと。例えば彼は、初めてアザラシを狩りに行った時に、なかなかできず、全然40回も挑戦して1頭しか取れなかった。しかし今となっては、割と簡単に取れるようになってしまったと言っています。それは経験により、どのようにアザラシと距離を詰め、どういうふうに狙撃したらいいかもわかるようになったから、ということらしいですね。それだけでも、アザラシを狩れるという時点で、なんか本当にすごいんですけど、アザラシは常にシロクマを警戒しているので、何か動きがあるとすぐに逃げてしまうらしいですが、それを気づかれないように近づくのがうまくなった。その話だけでも、すごい面白いですよね。面白いですが、本質はそこではなくて、それが負の側面だと。最初は必死だったのに、成功するのが当たり前になると、新鮮味はどうしても薄れ、淡々と旅が続いていくと。できるとわかっていることをやることに意味はあるのか、みたいな話が書かれている。私はまだ、そこまで淡々とプロジェクトを回すことができてはいないのですが、、、でも確かに、右も左もわからなかった頃に比べて、暗中模索感が減っているのは否めない。ただ、まだそこまで彼の境地まで達するほど、システム開発を極めているわけでは全くないので、日々の刺激は全然あるな、という感じは正直します。山は逃げるちょっと話は変わりますが、「山は逃げない」という言葉の話がすごく面白かったです「山は逃げない」という言葉は、よく言われますよね。山というものは、10年後も20年後もずっとそこにあるわけだから、状況が悪ければ無理せず降りた方がいい、というような安全標語みたいなものだそうですが、、、これは完全な嘘っぱちの妄言だと著者は言います。なぜかというと、山というものは、その時の自分の肉体の状況や思考などが組み合わさり、その上で「この山、このルートに登りたい」という衝動が湧き上がって初めて登るものであり、自分と山との関係性の狭間から自然に生じる、一時の夢だからだと言っています。すごいこと言いますよね。なので、もうその山に登れるかどうかは、その瞬間しかない。つまり、山は逃げると言っています。山はどこまでも逃げると。「脱兎のごとく逃げる山」とまで書いています。脱兎のごとく。はい。これも興味深い話ですね。自己の存在証明としての冒険そもそもこの著者が冒険する理由は、自己の存在証明のようなものだったようです。若い時から。若い時から「何者かになるために」そして「生を感じるために」。そして彼の中では、生を感じるには死と隣接しなければいけない。そこが最も彼にとって重要なもので、他のみんながやっていることをやることには意味がない。例えば、若者が旅に出て、自分探しをすることはいいことだと、肯定的に彼は書いています。しかし、インドにだけは絶対に行かないと決めていた。なぜか。自分探しをする人がよくインドに行って、人生観が変わった、人生観が変わったと気づき、帰ってくる若者がたくさんいる。それがあまりにも一般的すぎて、そんな誰もがやっているようなことは絶対にやりたくない、というように思うタイプの人だったそうです。いや、気持ちはわかるものの、でもそもそもインドに旅したいと思うバックパッカーみたいなことをする人っていうだけでだいぶマイノリティなのに、そのマイノリティの中のマジョリティみたいなものが、もうすでに彼の中ではスーパーマイノリティだと思って、超マイノリティでいたいって思っている、、、と。ある意味すげー真面目な人なんだろうなと思う。なので、チベットの奥地に10年間挑み続けたみたいな、誰も行かないようなところへ、行けないようなところを挑み続けた。そして、3割は死ぬような場所であるからこそ行く価値がある。そして、生還した時には満足感が得られるだろうと。自分は特別なものになるだろう、というような感覚で、3割は死ぬような場所に好んで行っている。そんな男だったそうです。やりすぎだが、、、気持ちはわかるし、カッコいいと思ってしまう自分がいて、読んでいてすごくワクワクする本だ。死の余白理論これが圧倒的でしたね。「死の余白理論」です。どういうことか。彼は、生きることの深い手応えを得るために、自然の奥深くに挑むというのが、冒険の基本構造だと言っています。つまり、この構造においては、生きようと努力することが、死に近づくことと等しいと。この矛盾こそが、彼ら冒険家の考え方だそうです。冒険家の気持ちを理解し切ることはできないですが、感覚としては理解できる部分があります。で、死の余白理論が出てきます。死にかけるような旅をして、そしてそこから生還する。生還すると、自分はあの状況から生還したんだという、とてつもない達成感を得る。しかし、しばらくすると、もっとやれたのではないか。生きて帰ってしまったということは、まだ生を完全燃焼できていない。完全燃焼ポイントである死まで届いていなかった。つまり、余力を残して帰ってしまった。死の余白がある状態だと思ってしまい、不全感に悩まされるそうです。・・・これはすごい理論ですよね。死なない限り達成できないけど、死ぬことは目的ではない。生を感じることが目的だから、生還しなければならない。つまりそれは、生の完全燃焼ポイントである死には決して届かない。高野秀行さんの感想僕の大好きなノンフィクション作家の高野さん。この『43歳頂点論』の著者は、早稲田大学探検部で、同じく高野さんも早稲田大学探検部ですね。つまり、高野さんが角幡さんの先輩にあたるわけですね。その、もうすぐ60歳の高野さんは、この本を読んで、やはり一番感銘を受けた点は、「死の余白理論」だそうです。で、その上で、高野さんは、今60代ですが、まだまだ高い山に登れるのではないかと思ってしまっている、と書いていました。自分の頂点は63歳くらいにあるんじゃないかなと思っている、と言っています。つまり、タカノさんは、まだこの先、恐ろしい冒険を考えているんですね。ミャンマーの奥地のワ州でアヘンを作ったり、ソマリアに潜入したり、海賊の見積もりを取ろうとしたり、いろんな冒険をしてきているのに、、、まだその先があるのかと思うと本当に楽しみですね。この角幡さんも、最後の最後に「もしかして頂点は53歳なのか?」とも言っています。はい、僕もまだまだチャレンジしていきたいと思います。