こんにちは、代表のWataruです。今回は『動物たちは何をしゃべっているのか』(山極寿一・鈴木俊貴 著)を読んで、私なりに印象に残ったことをまとめてみました。この本は、鳥の言語を研究する鈴木俊貴さんと、ゴリラの研究者である山極寿一さんの対談本です。また、以前鈴木先生と今井むつみ先生の対談に参加した時にこの本にサインもいただいちゃいました。内容が本当に面白いので紹介していきますね。鳥の言語を研究する鈴木俊貴先生鈴木先生は「鳥語がわかる人」として有名で、シジュウカラという鳥が、タカに対しては「ヒヒヒ」、ヘビに対しては「ジャージャー」と鳴くなど、普通に聞き分けられるすごい人です。1年の大半を森で過ごし、実際にその鳴き声を聞いて「空を見るとタカがいる」とわかるくらい、自然と一体化してます。さらに驚きなのは、「鳥の鳴き声に文法がある」ことを証明した点。これはまた別のセクションで詳しく触れたいくらい、非常に奥深い研究でした。ゴリラと暮らす山極寿一せんせい山極さんは、ゴリラの世界的権威であり、実際にゴリラと一緒に暮らして研究をしていた方です。ゴリラと暮らすって、、、衝撃的ですゴリラは手話ができる。ゴリラが手話を使うというエピソードが衝撃的でした。確かにゴリラは頭が良さそうなのでできそうなイメージがありましたが、想像をはるかに超えていました。とあるゴリラは2,000語以上の手話を使いこなし、自分の過去を手話で語ったという驚くべき話を紹介していました。そのゴリラに手話を教えてしばらく後に、以下のように話したそうです。「僕は群れで暮らしていたんだけど お母さんは密漁舎に首を切られて殺されて 僕は手足を縛られて棒にぶら下げられて 連れてこられたんだ」――そんなトラウマを手話で伝えることができたというのです。衝撃的すぎる、、、!鳥言語に「文法」がある?|ルー大柴からの着想特に印象的だったのは、シジュウカラの言語には文法があるという点。例えば「ピーツピ・ジジジ」はシジュウカラ語では「警戒して集まれ」です。ジジジが集まれ、ですね。で、シジュウカラはコガラという鳥と混群を作り一緒に集まってることが多いのですが、そのためコガラ語も理解するそうです。シジュウカラ語では「集まれ」は「ジジジ」ですが、コガラ語では「ディーディー」です。そこで、「ピーツピ・ジジジ」ではなく「ピーツピ・ディーディー」とすると通じるのです!さらに、この語順だと通じるが、ひっくり返すと通じない。。つまり、文法が存在することを証明できたのです!すごい!面白いことに、この証明方法は「ルー大柴さん」にヒントを得たそうです。「やぶからスティックに」「寝耳にウォーター」も、日本の文法に則った上で一部を英単語に切り替えているということですよね。そのためわれわれ日本人はその意味を理解できる。。まさかこの世界的研究にルー大柴さんが影響を与えていたなんて、、、面白すぎです。鳥は嘘をつく? 驚きの“騙しテクニック”シジュウカラは混群を作りますが、大きい種の鳥との混群であれば不利になり餌を奪われてしまうことがあります。そんな時、彼らは「タカが来た!」という嘘の警戒音を出して、他の鳥を逃がし、その隙に餌を得るという“嘘のテクニック”を使います。このように、動物にも戦略的な「騙し」の行動があるというのは驚きです。霊長類の「騙し行動」も驚き同様の行動は霊長類にも見られます。例えば、サバンナヒヒの子供は自分で掘れない地面の芽を、大人のヒヒに悲鳴を上げて「助けを呼ぶ」ことで、母親がやってきてオスを追い払い、その隙に餌を手に入れます。また、弱いオスが強いオスに追われたとき、天敵がいるように装って周囲を見回す(まるでライオンでもいるかのように振る舞う)ことで、強いオスを一瞬怯ませる、、、などの行動もあるそうです。研究者は研究対象に似てくる?これは興味深かったです。鈴木先生が面白い話をしていました。いろんな研究者たちが集まるパーティーに行くと、外見や仕草で「あの人は鳥の研究してるな」とか「あの人は魚の研究者かな」「あの人はカマキリかな?」とわかるというのです。これは、自分と似た生き物を好きになって研究してるのか、研究しているうちに似てくるのか――わからないらしいですが、とにかく不思議で面白い話です。山極さんの“ゴリラ的”コミュニケーション山極さんは、鈴木さんより年上で研究者としても“格上”の立場でありながら、対談では鈴木さんと非常にフラットに接してくれていたそうです。それは、ゴリラの性質と無関係ではありません。ゴリラはマウントを取らないフラットなコミュニケーションを重視する動物で、山極さん自身の人間関係にもその影響が現れていたのではないか、と語られていました。これはすごくいい話ですよね。ゴリラはすごく強そうなイメージですが、そう言った優しさ・繊細さがあって、人間も学ぶべきところだと思いました。動物も数がわかる? 赤ちゃんとピダハンの例本書では、動物もある程度「数」がわかるという話が紹介されています。これを聞いて思い出したのが『数の発明』という別の本です。(ちなみに、数の発明はピダハンを書いたダニエル・L・エヴェレットの息子であるケイレブ・エヴェレットが書いている、、、という点も非常に熱いんですよ!)「数の発明」では、「人間でも、言語として数の概念がなければ、3までしか認識できない」という話が出てきます。実際、アマゾンのピダハンという部族で実験したところ(彼らは数という概念を持たない武民族です)、3までの数量は認識できても、それ以上になると理解できないという実験結果があるそうです。また、赤ちゃんの研究でも(実験方法は割愛しますが)、数を教わっていない赤ちゃんでも3までは認識できるそうです。つまり、3以上の「数」というのは文化的に獲得されたもので、数字があるからこそ私たちはそれを認識できる。これは非常に示唆に富んだテーマだと思いました。人間と動物、どちらが上という考えはないこの本の根底に流れているのは、「人間が動物より上位である」というような前提が一切ないことです。動物たちは動物たちで、人間にはない感覚やコミュニケーション手段を持って生きている。我々は言語化できることはすごいことだけど、同時に「言語では伝えきれない」ことも大量にある。SNSの炎上などもその一例かもしれない、と。視覚的なコミュニケーション、非言語的なやり取りの重要性を見直す必要があると、この本は教えてくれます。