今回は『スロールッキング ― よく見るためのレッスン』という本を読みました。タイトルを見た瞬間に、これは興味深いと思い手に取りました。この本で言っている「スロールッキング」とは、一見して目に映る以上のことを、時間をかけて丁寧に観察するという行為のこと。美術館での作品鑑賞のような場面だけに限らず、日常のあらゆる場面——たとえば外を歩いているときでも、研究室でも、ネット上での体験でも——あらゆる「見る」という行為に対して当てはまる考え方だと述べられています。今の世の中は、動画を倍速で見たり、本も速読・斜め読み・飛ばし読みし、AIで検索し、、、といかに効率的に情報を得られるかが重視されていたりしますよね。何かとタイパ・コスパが気にされる時代。できるだけ急いで、最短距離で、結果を出そうとする風潮が強くなっていると感じます。でもこの本では、そういった流れに流されるのではなく、あえて「急がず」「じっくり」ものを観ることの大切さが語られていました。これは、感覚的にはなぜ働いていると本が読めなくなるのかとも似てる話に感じます。いろいろ考えさせられるところがあったので、今回はその感想をまとめてみたいと思います。小学生の「スロールッキング」授業に学ぶ観察の力本の中で以下のエピソードが紹介されていました。とある学校で行われた授業の話です。先生が子どもたちにこう告げます。「これから30分かけてこの絵を見てもらいます」。対象は小学5年生。正直、そんなに長時間、1枚の絵をただ見るだけでは飽きてしまうんじゃないか……と思いますよね。でも、この授業には“よく見るための工夫”が仕込まれていました。まず最初に、それぞれの子どもたちに「気づいたことを5つ挙げてください」と指示します。次に輪になって、前の人が挙げた気づきに対して何かを付け足していく形で観察を重ねます。そしてさらに、グループに分かれて「2つの疑問を共有してみる」というワークが続きます。これだけで、あっという間に30分が経ってしまったそうです。子どもたちはその過程で、さまざまなことに気づいていきます。形や色、線の組み合わせ、全体の構成、絵の中にある曖昧な要素、模様の鮮やかさ。あるいは「椅子が描かれているけど、それは誰のための椅子なんだろう?」「作者の椅子かな?」「自分が座ったらどんな感じかな?」と、想像がどんどん膨らんでいきます。たとえその解釈が、作者の意図とまったく違っていたとしても、子どもたちは明らかに多くのこと「見て」「考えて」「学んで」いました。ここには、まさにスロールッキングの本質があるように感じました。僕自身も、普段から意識しないと見えていないものがたくさんあるなと思います。街の風景もそうですよね。ただ何気なく通り過ぎているだけでは気づけないようなことが、少し立ち止まってじっくり見てみると、「あ、ここ、こんな風になってたんだ」と思える瞬間がある。そういう意味で、「ゆっくりよく見る」というのは、とても大切な行為なんだと改めて感じました。「素早く見る」ことは人間の本能、でも――この本では、「素早く見ること」は人間にとって自然な性質だ、と書かれていました。確かにそうだなと思います。人は本来、目の前の情報を瞬時に処理して、すぐに次の行動に移るようにできている。現代社会ではなおさらです。動画も倍速、SNSもタイムパフォーマンス重視、本も斜め読み。パッと見て、パッと理解して、パッと動く。そのスピード感が大事だとされています。ただ、本書で強調されていたのは、「だからこそ、あえてゆっくり見ることに意味がある」という点です。教育の場面でも、「深く考える力」や「熟考する力」が大切だと誰もが口を揃えて言います。にもかかわらず、実際の教育現場では、早く正解を出すことばかりが求められ、ゆっくり考えることが軽視されてしまっている。ここに大きな矛盾があります。たとえば、美術館に行ったときに、ただ作品を“見る”のではなく、「どんな色が見える?」「どんな形がある?」「どんな線がある?」と、観察したことを丁寧に言葉にして、何度も繰り返す――。つまり、「見る」という行為自体に深さがある、ということです。時間をかけて丁寧に観察することで、自分の中にある理解や感性も少しずつ広がっていく。特に現代のように、SNSやAIが人間の思考のスピードすら先回りしてくるような時代だからこそ、「あえてゆっくり見る」「あえて考える」という姿勢が、より一層重要な気がします。スロー・ジャーナリズムについて本書の中で「スロージャーナリズム」という概念も紹介されていました。あるジャーナリストがこの言葉を使って、その定義について語っていたのですが、そこにはこんな特徴があるそうです。競争に勝つことに執着しない速さや「一番であること」だけでなく、正確さ・品質・文脈を重視する有名人や記者が殺到するような出来事を避ける物事を見極めるのに時間をかける語られていないストーリーを丁寧に探し求めるこの姿勢って、すごく良いなと思いました。もちろん、私もIT業界にいる以上、最新のテクノロジーやツールの情報を追いかけることは欠かせません。それ自体は悪いことではないし、業界の性質としても重要です。でも、そういった「目新しさ」や「話題性」ばかりを追い求めていると、どうしても“上っ面”を撫でるような情報発信に偏ってしまうんですよね。目先のPV(ページビュー)を取るために、流行りのツールの名前を入れて、バズりそうなネタばかりを扱う――。そんな動き方になってしまう危うさがあるな、と。このスロージャーナリズムの考え方は、そういう傾向に対して一つのアンチテーゼになっているように思います。「バズるかどうか」よりも、「それが本当に伝えるべき情報なのか」「自分が心から納得できるものなのか」といった基準で、ゆっくり、丁寧に、文脈を大切にしながら発信していくこと。これは情報発信だけでなく、企業活動や日々の仕事のスタンスにも通じるものがあると感じました。スロールッキングと「記述」の関係本書では「スロールッキングと記述」について書かれた章もあり、これがまた非常に興味深い内容でした。「よく見ること」と「書くこと」は、実は密接に関係している――そんな考え方が紹介されています。特に文章指導をしている人たちにとっては、これはとても馴染みのあることのようです。ゆっくり見ることを教える最もシンプルな方法の一つは、生徒に「時間を与えて、見たものを文章で説明するように促すこと」だと書かれていました。これは確かにその通りだなと思いました。何かをアウトプットするつもりで見たり学んだりすると、自然と「もっとちゃんと見よう」と意識が変わりますよね。細部に注意が向くし、適当な理解では済ませられない。そういう意味で、「書くこと」は「見ること」の質を上げてくれるんだと思います。一方で、私自身は何かを書くときに、つい「要点だけピックアップしてまとめよう」としてしまいがちです。本を読むときも、ネットで調べ物をするときも、「どこが要点だろう?」「どこを拾えば効率がいいか?」という視点が強くなってしまって、結果としてせっかくの情報を“浅く拾って終わり”ということも多かった気がします。だからこそ、少し意識を変えて「焦らず、じっくり情報に向き合う」ことが大切だなと思いました。ただ効率よく要点を得るだけではなく、じっくり観察し、じっくり書く――そんな姿勢を持つことで、見えてくるものが変わってくるかもしれません。これは、先日読んだ『情報分析力』にも通じる話でした。あの本でも、「分析能力を高めるにはアウトプットが重要だ」「書くことで考える力が養われる」という話が出てきました。やはり「書くこと」は思考や観察の質を引き上げる、非常に強力なツールなんだと改めて感じました。ちょっとアート寄りな部分もあるためか、読みにくい部分もあり一部飛ばして読んじゃいましたが、スローにみるという概念は新しい刺激になりました。周りの流行に流されず、仕事の忙しさに慌てず、「ゆっくり見る」ことをしばらくやってみようと思います。