今回、このヌラブリという本を読みました。文字も小読みも持っていない狩猟採集民のところに、著者が言語学の調査に行き、十年以上にわたって一緒に過ごすなかで、その文化に影響を受けながら、さまざまな発見をしていくという内容です。この話を聞いたときに、すぐにピダハンを思い出しました。ピダハンの言語を調査したダニエル・L・エヴェレットさんが、アマゾンの奥地に暮らす原住民と数十年寄り添い、言語をゼロから習得していったというエピソードです。まさにその本と同じような雰囲気を持ちながらも、このヌラブリの本は日本人著者が書いていることもあって、日本人的な感覚を踏まえて読めるため、とても親しみやすく、読みやすくて楽しかったです。伊藤雄馬さんの人生ムラブリの話はもちろん面白いのですが、その前の著者の生き方自体が面白かったです。なんとなく聞いたムラブリたちの話し方・声に一目惚れし、研究したいと思う。そしてそれを言ったら研究している人がいるよと紹介され、すぐに会ってみる。その研究者の偉い先生に話すと興味を持ってくれて、一緒に現地に研究しにいく。でも全く準備をしないで行ってしまう。研究にはタイ語は必須なのにタイ語どころか英語もほとんどできない状態で現地に到着。研究の準備も全くできていなく、その偉い先生にボコボコに怒られ、一晩中説教される。夜中まで電気がついていたのでムラブリに「昨日は電気消し忘れて寝ちゃったの?」と言われる始末。でも、結果その無謀なチャレンジにより実際にフィールドワークをしているという経験を得れたため次の研究にも生き、そこがあったおかげで京都大学の大学院に行けて、、、と、行動が幸運を呼び次の結果に繋がっていく、、、という印象でした。こういう生き方、すごくいいなーと。こういう人好きです。どうでもいい情報が仲を深める例えば、コミュニケーションには合理的コミュニケーション、つまり内容を重視する合理的な会話があります。でも、そうではなくて、例えば友達とハンバーグを食べているときに、「このハンバーグおいしいねー!」「おいしいね」「ねー!」「おいしいねー!」と繰り返しているのは、ただ「おいしいね」を言っているだけで新しい情報は全くありません。にもかかわらず、むしろ仲が良さそうな会話に聞こえて、実際に仲が良くなっていく。こういう合理的コミュニケーションではなく、ただどうでもいい内容を言う「儀礼的コミュニケーション」も、その方が重要だったりする。仲良くなるためのもの。その最たるものが「あいさつ」だ、と書かれていました。ムラブリの人たちは意味のない挨拶、意味のないことを言って挨拶をするそうです。例えば「おはよう」等のあいさつの言葉はない。代わりに、「ご飯食べた?」と聞いたり、「どこに行くの?」と聞いたりします。それに対して正確にどこに行くかを言う必要はなく、ただ「どこどこに行く」と即答することが大事。真面目に考えて「何とかだ」という答えをする必要は全くない。これこそが合理的コミュニケーションではなく、挨拶、儀礼的コミュニケーションとしての仲良くなるための技法。とても面白いと思いました。「心が上がる・心が下がる」という感覚ムラブリは、楽しい時、嬉しい時、悲しい時、怒っている時などに「心が上がる」「心が下がる」という表現を使います。直感的には、心が上がる=ポジティブ、心が下がる=ネガティブに聞こえますよね。しかし、ムラブリの場合は逆なのです。ムラブリにとって「心が上がる」は悲しいとか怒りを表し、「心が下がる」は嬉しいや楽しいを意味するのだそうです。これは非常に面白いですね。世界中で「Up is good」が当然のようで、上に上がることは良いことです。たしかに、GoodボタンやBadボタンも親指の向きで表されるように、ほぼ普遍的に共有されている感覚です。しかしムラブリは逆を採用している。この感覚の違いは、彼らのカルチャーや幸福観に結びついているようです。彼らは争いを好まず、静かにおとなしく過ごすことを幸せと感じています。怒りや楽しさを大げさに表すこと、例えばお祭りのように騒ぐことはあまり好きではない民族のようです。「Down is happy」の感覚たとえば、ムラブリが車を持っているタイ人に、「遠くにいる親族に会いに行きたいから車で連れて行ってくれ」と頼んだそうです。なんどもしつこく頼むので、そんなに会いたいなら・・・と何時間もかけて送っていったそうです。運転したタイ人は「久しぶりに会えたのだからすごく喜ぶだろう」と期待したそうですが、実際はムラぶりたちはせっかくの再会なのにお互いほとんど話すこともなく、一緒に食事することもなく、ハグもせず、ただ横に座って顔も見ずに過ごしただけ。そして1時間もしないうちに「まだ帰らないのか?」と言って帰ってしまったそうです。彼は何時間もかけて送ってやったのになんなの!?と思ったようですが、ムラブリにとってはこれこそが幸せなのです。落ち着いて、静かに、ただ共にいるだけでよい。まさに「Down is happy」なのです。日本人との感覚のギャップ著者の伊藤さんも、長く村振りに滞在するうちに、この感覚が身についていったと言います。日本人と会ったときに怒っていなく幸せな気分のときに「怒ってるの?」と聞かれることが増えたそうです。幸せな時ほど落ち着いて、のんびりして、表情も特に出さず、目も合わせない。それがムラブリ的な「幸せ」だからです。そして伊藤さんもそれがうつってしまったと。しかし、一般的な日本人からすれば、ニコニコしてたくさん話しかけてくれる方が楽しいと感じるので、そこに大きなギャップがあります。カルチャーによってここまで違うのか、という例ですね。なんでも自分の感覚を正と思っては行けないと考えさせられます。数字:1、2、3、たくさん村ぶりは暦を持たない民族ですが、数字もあまりよくわかっていなく、1から10までしか数がないそうです。また、4は「たくさん」という意味になる。つまり、「1、2、3、たくさん」の世界なんですね。みんな自分の年齢をちゃんと数える人はいないし、基本的に年齢を知らない。さらに、1から10まで数えることができる人は非常に稀で、みんな途中で間違えてしまうそうです。興味深いのは、1から10まで数えられることが知的さを示す手段になっていて、男たちは酔っ払うとこぞって数を数えたがることです。だいたい10まで数えることはできず、ほとんど失敗に終わり、途中で抜けたり、同じ数字を2度繰り返したりして、最後までたどり着くことは少ない。ちょっと面白いですよね。一つの遊びなんですね。数が、彼らにとっては何かのために使う道具ではなく、宴会の芸の一種みたいなものになっている。めちゃくちゃ面白い。。確か「数の発明」という本だったかな、あるいはピダハンの本かもしれないですが、どこかで読んだことを思い出しました。その本によれば、人は3までしか数えられないそうです。赤ちゃんも3までは認識できるけど、3以上になると数の違いがわからなくなる。教育を受けなければ数は数えられない、と。数の教育を受けていない原住民、例えばピダハンも3までしか認識できない。例えば、何かを3つ見せて「これと同じ数だけ並べてください」と言うと、3つまでは並べられる。けれど、それが4つや5つ、6つになると同じ数を並べることができない。なぜなら、数というものを学んでいないから。つまり、人間が本能的にわかるのは3までという話が書かれていました。まさにこのムラブリのケースも同じですよね。4は「たくさん」。4は人間では認識できないという数。これを実際に見て「本当にそうなんだ」と思いました。こういう民族もやはり3までしか認識できず、4は「たくさん」という意味になるのかということが確認できて、非常に面白いなと思いました。漢数字は、「一、二、三」までは棒線を引くだけなのに、4から「四」という違うルールになる。ローマ数字も同様、 I, II, IIIまでは同じで4からはIV。これはもしかしたら人が3までしか認識できないからなのか、、、気がしてきます。過去や未来ではなく「いま、ここ」の感覚また、やはりムラブリもピダハンと非常に近いところがあって、ピダハンでいう「イビピーオ」という考え方に近いようです。直接経験、つまり「今ここで直接経験している」という感覚を重視していて、過去や未来のことをあまり考えない。ピダハンについてもそう言われていますよね。それゆえに幸福度が高いと。ムラブリも同じようで、例えば「明日は空いてる?」と聞いても「イオーイ」と答えるそうです。「イオーイ」というのは「わからない」という意味です。今日の昼空いてる?と聞いても「イオーイ」。つまり、今この瞬間しかわからないし、未来のことなんて話してるとおそらく「何の話をしているの?」という感覚なんでしょうね。実際、「明日は家に居てね」と約束をしたと思っても、翌日訪ねるともう出かけてしまっている、なんてことはしょっちゅうあるそうです。彼らにとっては、そのときその場所でどう動くかを自分で判断していて、約束は過去のこと。今ここで起きている現実に比べれば、約束の優先度はずっと弱い。著者も最初は約束を守ってもらえないことに納得できず、イライラしたりしたと書いていました。けれども、ムラブリの人たちは明日の約束をしようとするとき、「イオーイ(わからない)」と答えながら、どこかで著者のことを笑っていたそうです。まるで「来年のことを言えば鬼が笑う」と同じで、彼らにとっては来年も明日も同じ。「『今、ここ』ではないことを口にして何か意味あるの?」という感覚なのだろうと著者は書いていました。これは我々にはあまりない感覚ですが、そういうのが当たり前である世界もある。そこに一つ学びがあるなと思いました。「いま、ここ」と自殺ムラブリの中で自殺者が増えた時期があったそうです。著者は、その背景に「今ここだけを重視する」という村振り本来の感性が薄れてきたことがあると書いています。定住をするようになり、換金作物の栽培を手伝うようになってから、計画性が求められるようになった。そうした生活の変化によって、ムラブリにも自殺する人が増えていったのだそうです。著者と仲のいいた女の子が自殺してしまった話もとても悲しかったです。方法として多かったのは農薬を飲むことらしく、かなり苦しんで死んでいくようで、本当に痛ましいことだと思いました。なぜムラブリが自殺するのかと尋ねたところ、ある男性は「長く考えたから」とだけ答えたそうです。長く考えたから・・・長く考えることが如何に心に非常に良くないことなのか、、、この話でまず思い出したのはピダハンのエピソードです。ピダハンは、自殺をした人の話を聞かされると大爆笑したそうです。「自分で自分を殺すだって?ピダハンはそんな馬鹿なことはしない」と。彼らは自殺する人の気持ちがまったくわからない。今のことしか考えないピダハンにとって、自殺という概念自体が理解できない。過去も未来も一切考えず、今だけを考えて笑顔が絶えないピダハン族。しかしムラブリはピダハンとは違いました。タイに近く、少し定住するようになり、文明が入ってくることで、「今ここだけ」という感覚が揺らぎ始めた。その結果、自殺が増えてしまった。文明により、過去・未来の概念により、計画性により、「長く考えること」により、自殺が増える。。考えさせられます。富を集中させないムラブリの仕組みムラブリは、富を集中させないような仕組みを作っています。例えば豚が手に入ったら、できるだけみんなが揃っているときを考えて、そのときに解体してみんなで分けて食べます。誰か一人だけが独り占めすることがないように、しっかりバランスを考えてシェアするのです。こうした仕組みは彼らにとって自然な文化として根付いているようです。さらに面白いのは、例えばバイクの使い方に関する話です。村ではバイクが使われることもあるのですが、修理する技術がないため、町のタイ人の修理屋に依頼するしかなく、当然お金がかかります。基本的に現金をほとんど持っていないムラブリとっては大変な負担です。そこで、あるタイ人が「バイクの修理方法を教えればいい」と考え、ムラブリに修理を教えたそうです。ところが、誰一人として覚えようとしなかったそうです。ピダハンと同じですね。。それを見たそのタイ人は「なんて向上心がない奴らなんだ」と嘆いたそうですが、著者の見解は違いました。これは「知識の集中によって権力や上下関係が生まれることを、無自覚的に避けているのではないか」というのです。誰か一人が修理できるようになれば、その人に富や権力が集中してしまう。それを避けるために、あえて誰も覚えないのではないかというのです。実際にムラブリには、誰かだけができるという専業的な役割が存在しません。例えば、手編みのバッグもみんなが縫うことができるし、バナナの葉っぱで簡易的な家を作ることも誰でもできる。誰もが自分で自分の荷物を運べる。すべてを自分でこなせるけれども、誰かが特化して専業的に担うことはないのです。だからこそ、高度な生活はできていないのかもしれませんが、反面、権力の集中も起きない。結果として格差が生まれないのです。まさか「分業が格差を生む」という構造になっていたとは考えてもみなかったので、この考え方はとても興味深いと思いました。