『武士道』冒頭部分の感想今回は新渡戸稲造の武士道について書いていきたいと思います。まず冒頭のエピソードから。新渡戸稲造はベルギー人と宗教について話していたときに、こう言われたそうです。「日本の学校では宗教教育がないのですか?」と。それに対して稲造が「ありません」と答えると、相手は大変驚いたといいます。「宗教教育がない?では日本人はどのようにして道徳教育を授けるのか?」と問われたとき、稲造は一瞬言葉に詰まったそうです。たしかに自分の中にある道徳の感覚や正義の観念は、学校で学んだものではなかった。では一体どこから来たのか、と考えてみると、それを形作っていたのは「武士道」であったことに気づいたと書かれています。これは非常に興味深いと思いました。確かに多くの宗教では、宗教と道徳が結びついていて、教育の一環として道徳が伝えられるものです。しかし日本の場合は宗教を介さずに、自然と武士道を通じて道徳を身につけていた、というのは「なるほど」と感じました。現代の私たちも、どこかで武士道的な感覚を持って生きているのではないか――そう思わせられる内容でした。やはり日本人の奥底には、今でも武士道の精神が流れているのではないかと感じました。新渡戸稲造その人についての感想この本を読んでまず思ったのは、「新渡戸稲造そのものが本当にすごい人物だ」ということでした。私は正直、お札になった人であること以外はあまりよく知らなかったのですが、この『武士道』を通して、彼がどれほど博学で、海外に留学して深く学んだ人だったのかを知りました。この本の「内容」の前に、「書き方」がとても秀逸だと感じたのは、単に「日本の武士道とはこういうものだ」と一方的に日本視点で説明しているのではなく、海外のさまざまな書物を読み、文化を理解したうえで比較しながら書いている点です。引用される言葉も幅広く、日本の武士や思想家の言葉に限らず、孔子や孟子の論語、儒教や仏教の教えといった東洋思想はもちろん、キリスト教を深く理解し、プラトンやアリストテレス、モンテスキュー、シェイクスピア、ロシアの哲学者、ドイツのヘーゲルやビスマルクなど、西洋の思想まで多岐にわたります。ソクラテスやカエサルはどう言っていた、など引用しながら武士道と比較し説明するのです。まるで世界の哲学や宗教を縦横無尽に参照しながら、武士道と照らし合わせているのです。この比較の仕方は「ここは似ている」「ここは異なる」という形で説明されており、非常に説得力があります。なにより、1800年代の終わりというネットどころか書物の流通さえ今ほど容易でなかった時代に、これだけの情報を正確に集め、学び、理解できていたことに驚かされました。英語をはじめ、複数の言語を正確に読み解き、それを自分の思想と融合させて書き上げる新渡戸稲造の知性と努力に、強い感動を覚えました。さらに、一方的に武士道がいい、日本はすごい、と主張するわけではなく、各国のカルチャーに対するリスペクトも感じられました。海外に気を遣いながらも丁寧に書かれている感じがします。これ、原文は英語で書かれているものなので、よくGoogle翻訳もAIもない時代に外国語でそこまで書けるとは、と。当時の日本人のポテンシャルの高さ、そして新渡戸稲造という人物の凄みを改めて感じました。本当に「すごいな」と思いました。武士道の内容についてこの本では、武士道とは何か、その源流はどこにあるのか、そして武士道を形づくる主要な徳目について詳しく書かれています。具体的には、義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義といった項目が取り上げられ、それぞれがどういう意味を持ち、どう実践されていたかが説明されています。また、切腹や介錯、女性に求められた美徳、大和魂といった側面にも触れられています。例えば「勇」の章では、勇気について論語の言葉を引用しながら論じられています。「義を見てせざるは勇なきなり」つまり勇とは「正しきことを成すこと」であり、ただの蛮勇や無謀な突進は称賛されないとされています。武士道では、死に値しないもののために命を捨てることは「犬死に」とされ、むしろ軽んじられる。戦場で無闇に突っ込んで討ち死にすることは身分の低い者でもできることであり、本当の勇気とは「生きるべきときに生き、死ぬべきときに死ぬこと」だとされる、と説明されています。さらに、この勇気の考え方は西洋の哲学とも比較されています。例えばプラトンが「勇気とは、恐れるべきものと恐れるべきでないものを識別すること」と定義したと紹介され、そこに共通点があることが示されます。こうした東西の思想の比較を通じて、勇という徳目の本質がより立体的に理解できる構成になっているのが印象的でした。贈り物文化の比較「つまらないものですが」この本の中で特に印象的だったのは、アメリカと日本の贈り物の表現の違いについての解説でした。アメリカ人の場合、贈り物を渡すときにはその品物そのものを褒めます。「この品物は素晴らしい。あなたは素晴らしい人なので、素晴らしくなければ、あなたに差し上げたりしない。」つまり、贈り物の品質を通して相手を尊重しているのです。相手が立派だからこそ、粗末なものを贈ることは失礼にあたる、という考え方ですね。一方、日本人の場合は正反対で、贈る側が「つまらないものですが」と表現します。「あなたは立派な方なので、どんな品物もあなたにふさわしいものではない。だからこれは私の心のしるしとして受け取ってください。」つまり、日本人にとっては品物そのものではなく、「相手の価値があまりにも高いがゆえに、何を贈っても足りない」という姿勢を示しているのです。この違いは一見すると真逆に思えますが、究極的にはどちらも同じことを言っている。つまり、相手を立てて敬意を示すということです。アメリカでは「品物を通して相手を尊重する」、日本では「品物を卑下することで相手を尊重する」という、表現の違いにすぎません。この文化比較の視点はとても面白いですよね。言葉の違いはあっても、根本には同じ「相手を敬う心」があることを、改めて感じさせてくれるエピソードでした。このように、西洋のカルチャーにも日本のカルチャーに通じるところがあると都度述べているのがこの本の価値だし、日本だけではなく西洋の人たちにも広く読まれることになった理由なんだなと思いました。武士の教育「お金を語らない美学」|数学を学ばない理由この本の中で興味深かったのは、武士がどのように教育されたかという部分でした。まず教育の第一に重んじられたのは、知識よりも「品格の形成」だったと書かれています。もちろん、知的な要素は教養人として欠かせないものでしたが、それ以上に「資質や人格」が大事にされ、単なる知識は従属的なものと見なされていました。その教育科目の例として、剣術・弓術・柔術・馬術・槍術・戦略戦術・書道・道徳・文学・歴史が挙げられています。まさに武芸から学問まで幅広い内容で、侍として生きるための総合的な教育だったことが分かります。しかし面白いのは、軍事に欠かせないはずの数学があえて外されていた点です。理由は「武士道は損得勘定を考えず、むしろ貧困を誇るから」だと書かれています。経済や金銭に関する知識は下品なものとされ、金銭の価値を知らないことこそが育ちの良い証拠と考えられていたのです。また、武士道は「無報酬・無償であることに仕事の価値がある」と信じていた、と書かれています。教師や僧侶といった職業も、「報酬は金銭で支払われるべきものではなかった」と。それは価値がないからではなく、金銭では測れない価値があったから、と。この感覚は、私自身もどこか分かる気がしました。子供の頃から「お金の話はするものではない」と教えられたように思います。無意識のうちに、お金のことを話すのはいやしいことだと刷り込まれていたのかもしれません。ただ現代のビジネスの世界ではそれは逆で、お金を稼ぐことは悪ではありません。人がお金を払うような価値を提供しているからこそ報酬が発生するわけで、稼ぐことは社会に貢献している証でもあります。新卒で社会に出た頃、先輩から「これはお金をいただいてやる仕事なんだから、もっと真剣に」と言われても、どこかで「お金だからって何が大事なんだろう?」とピンと来なかった経験があります。今思えば、それも武士道的な感覚が自分の中に流れていたからかもしれません。この部分を読んで、自分のルーツが日本人として武士道文化の影響を受けていることを実感し、改めて興味深いと感じました。そして改めて考えさせられます。例えば現代の教師も、この価値観で報酬に見合わないような稼働で働いている人が多いと思います。教師などの職業に限らず、あらゆる職業でこういった思想のもと馬車馬のように働き日本を支えてくれている人たちがいます。今ではそれがブラック企業と言われます。なぜブラック企業とよばれるか、というと、その働き方・考え方の問題ではなく、サービスを受ける側にリスペクトがあるかないかではないか、と思います。例えば、小中学校の教員はものすごく大事な職業で、昔は尊敬される対象だったはずですが、現代は軽視される傾向が多いように感じます。クレーマーも多く、やりがいを感じられにくくなっているのではないでしょうか。現代においては、成果に見合った報酬が支払われるべきと思いますが、サービスを提供する側、サービスを受ける側に武士道精神が少しあればまた違うのでは、、、と思ったりしました。